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35歳までに身につけたい習慣 その1「プラスαの価値を提供しろ」

私は早いもので40歳を迎えた。振り返ればいろいろある人生だった。

有難いことに時間の重ね方には満足している。若い自分が見たら少しは安心してもらえるだろうか。

人は生きているだけで、ただ生きているだけで何かが起きる。自分自身にも、自分の周囲にも。私自身も決して順風満帆な人生とは言えないが、順風満帆な人生の人などいないと思っている。それは他人が見て順風満帆な人生に見えると錯覚していると思っているからだ。

後述するが特に経験を積むという意味では1年として無駄にせず歳を重ねることができた。これは幸いなことだ。何よりこの歳まで生きてこられたことに感謝している。若い自分にも言っておきたい。今日生きていられるのは誰かのおかげだということを。誰かの代わりに生かされているということを。理屈ではなく、感謝するマインドは忘れないで欲しい。間違っても今日ある命が当たり前だとは思ってはいけない。それを伝えた上でどうしても若い自分に伝えたいことがある。

価値を消費するだけの生活から脱却し価値を提供する生活を習慣化しろ

少しダイジェストで人生を振り返るが、思えば私には子どもの頃から「なりたい職業」がなかった。「これがしたい!」と嘱望する分野もなかった。ジャッキー・チェンの映画を観て「強くなりたい!」と思ったり、今でいえばアイアンマンを観て「格好いい!」と憧れを抱くことはあった。しかしそれを将来の自分に重ね、何かを実生活で努力することはなかった。つまりごく普通の子どもだ。

強いて言えば「何を生業にしたとしても、自分だけで精一杯の人生は嫌だな」という感覚は持っていた。もう少し補足すると、願わくは、職業を問わず、自分が食べていくことで手一杯の人生(それだけでも十分立派だとは思うが)、他者に手を差し出せない心に余裕のない人、自分(とその家族)だけを守ることで手一杯な人にはなりたくなかった。そういう大人になることに抵抗があった。

特に取り柄のなかった学生時代、進路相談室で見つけた職業パンフレットの表紙が社会人としてのスタート地点を見つけた。誠心誠意、他人のお世話をすることで「ありがとう」と言って給料がもらえる「介護」という仕事があることを知った。

当時の私は「福祉」という言葉が「介護」を意味するものだと勘違いしていた。「社会福祉士」という資格を取得してから、どうしても介護がしたかったので「介護福祉士」の資格を取得した。

そして晴れて念願の特別養護老人ホームに就職できた。給料は十分ではなかったが、日々「働く喜び」を感じていた。学生時代からの友人に「3K(きつい・汚い・臭い)の環境でよく頑張るよな」と言われたことがあるが、言われるまで意識もしなかった。私には抵抗がなく、人生の大先輩のお世話ができるという喜びの方が大きく、天職なのかもしれないとまで感じていた。

あの頃の私はいわゆる「モーレツ社員」であった。誰よりも早く出勤し、先輩方のデスク周りを掃除し、誰よりも遅くに退社する。当時は「働き方改革」などの言葉も概念もなかった。

タイムカードは存在したが、押すのは出勤時のみ。実に多忙で実質的に「仕事」に向き合えるのは17時30分を超えてからだ。毎日の退社時間は早くても22時〜23時頃で、日付を越えてから退社することも珍しくなかった。しかし退社時間は17時30分と手書きをしていた。

ここまで書くと、いかに私がブラック企業に勤めていたかというアピールに受け取るかもしれないが、誤解しないで欲しい。会社がブラックか、グレーか、ホワイトなのかは置いておいて、私自身、確かに働く喜びを感じていた。誰よりも早く出勤することに喜びを感じていたし、職員皆が実働時間通りにタイムカードを押すと人件費で会社が倒産することも理解していた。

1日働き、日付が変わろうとしている時間に退社する際に「今日も少しは貢献できたかな?」「今日も少し、思い描いている一人前の職員に近づけたかな?」と自問しては微笑み、体はクタクタでも精神的な充足を感じていた。今も昔も変わらないのは、私の喜びは労働による対価ではなく「貢献感」であった。

それが私の社会人の原点となった。2年目からは「現場主任」兼「相談員」という、他の福祉施設であれば人を分けても良いようなことも任されていた。「おめでとう」などと言われ、名刺を受け取り、悪い気はしなかった。それが20代前半の自分の姿だ。鮮明に覚えている。7年ほど働き、特養とは何か、老いを生きるとはどういうことか、介護保険とは何か、ケアマネージャーとは何かを学んだ。

腰部椎間板ヘルニアを発症し、介護ができなくなり、特養を離職後は以前から関心の高かった「地域福祉」の分野に進んだ。地域支援部のコミュニティーソーシャルワーカーとして勤務した。そこでは高齢者に限らず、老若男女問わず生活困窮者を対象にソーシャルワークを実施した。いわゆるリーマンショック後ということもあり、文字通り鬼のように働いた。

1日最小でも8人、飛び込み相談を含めると15人ほどを相手に毎日相談援助を行った。完全予約制であったが2週間先まで予約は埋まっていた。私はソーシャルワーク経験者ということで、荒ぶる相談者専門の相談員として配属されていた。相談ブースから怒鳴り声が聞こえると菅原の出番というわけだ。自己記録だが1人の相談者を相手に13時間連続で面談したという相談記録を持っている。ただの能力不足と言われても仕方がないが、あらゆる援助技術が通用しなかった。後になってわかったことだが、相談相手は反社会勢力の構成員で精神疾患も抱えていた。朝9時から22時まで、トイレにも行かせてもらえず、最終的には怒声をあげ火災警報器のボタンを押して帰ってしまった。ヘロヘロになって相談室から出てきて「記録、どうしようか」と思った矢先に上司が「菅原くん、帰るで!」と手招きし、立ち飲み屋で焼き鳥を食べ、終電に駆け込んだ思い出がある。

高齢者福祉の時は「老いを生きるということ」について考えさせられ、地域福祉では「今日、明日をいかに生きるか」という悩みを抱えた人たちの支援に明け暮れた。完全予約制の時間厳守の状況下で援助を行うという、リーマンショック後の6年間も得難い経験であった。

そして縁あって医療分野に進むこととなる。医療分野でのソーシャルワークは主には私が得意としている生活困窮者への支援のほか、これも自ら経験してきた「福祉」や「地域」との連携が軸となる。医療機関に移ってソーシャルワークを実施して6年ほどが経過するが、これまでの職歴と知識が大きな武器となっている。

結果的に私はソーシャルワークの分野で絶対的な自信を得ることができた。決して過信してはならない分野ではあるが、以下の裏付けからいかなる案件も動揺することなく相談者と向き合うことが可能となった。

  • 介護主任としての指導者、特養相談員を務めた経験
  • リーマンショック後の生活困窮者を支援した経験
  • 医療機関のソーシャルワーカーとして支援した経験

「福祉」「地域」「医療」という切っても切れない関係の分野を経験できたことは私の強みだ。それなりにヘビーな相談にも多く向き合ってきた。

現場で働くことで気づく社会保障やセーフティネットの矛盾や改善点、課題は多く、それがソーシャルワークの現場で起きている事実だ。その事実を日本政府に届け改善してもらわないとならない。私にはその責務がある。そのためにもアウトプットは重要だ。

ここまでは若き自分への回顧録として安心して欲しいという気持ちが込もり冗長としてしまったが、本当に伝えたいことは、「若いうちからアウトプットすることを習慣化して欲しい」ということだ。20代の自分に会えるなら本気で伝えたい。テレビを見ることも、遊ぶことも、食事をすることも、すべて何かの「価値」を消費している。私自信、それに気付けず価値を消費するだけの生活を過ごしてきた。肝心なことは、価値を消費するだけで完結するのではなく、価値を提供することを習慣化して欲しいということだ。何を提供すれば良いのかがわからないと思うだろう。ポイントは「価値」を重く定義しないことだ素晴らしいと感じる映画を観たらそれを、感動体験したらそれを、美味しいと感じたらそれを、なんでも良い、アウトプットする習慣を身につける、それだけだ。

もちろん日常生活の中で気がついたこと、例えばゴミを拾う、倒れている植木鉢をなおす、落とし物を見つけたら警察へ届ける、そういったことも大切なことだ。それも十分に自分が気づいたことで正しいことを行う立派な価値の提供と言える。

ここで言いたいのは、日本だけでも毎日4,500万人がネットを閲覧しているという情報がある。そのうちの1万人、いや、500人でも構わない。経験を共有できれば、それも立派な「価値の提供」だ。楽しい経験を、感動体験を、美味しいものを食べた記憶を、新しい何かを学んだ喜びを、自分だけに留めず積極的にアウトプットする。評価されることや見返りを求めてはならない。そんなことに興味がないことは私が誰よりも知っている。ただそれを習慣化するだけで、実生活で対人援助を行っていることや、正しい行いをすることと同様に、擬似的でも遥かに大勢に貢献することができる。どこかで、誰かがその情報に価値を感じてくれる。そう思うだけで、貢献感が得られる。だから私は若いうちからその習慣を身につけて欲しいと思う。

もう一つ付け加えるならば、賢い人は自分の特技をお金に換える術を実践している。特技といっても、朝寝坊しないことも立派な特技だし、2、3年何かを経験した知識や技能も立派な特技だ。そういった特技や技能を誰かに提供し、対価として金銭を受け取れる仲介サービスがいくつかある。

最後に、回顧録では割愛したが、私は40歳になる直前に重度のうつ病になり、しばらくの間バランスを失った。今も身体的なハンディは抱えているが、若い自分が知ったら驚くだろう。もし叶うならうつ病になって見えた景色について、若い自分といろいろと語りたいものだ。

そして何より若い自分が気になっているのは結婚についてだろう。焦らさず回答すると、最愛の人と喜びを共有して幸せに過ごせている。関係ないように思うかもしれないが、今回のメッセージと共通している。自分が幸福になるための直感を大事に生きろという点だ。人生は短い。だからこそ自分の直感を信じて行動するべきだ。その判断の決め方はシンプルな方が良い。その行いは幸福か、そうでないか。人としての成長が見込めるならある程度の我慢は必要かもしれない。ただし幸福を感じないならばその環境にしがみつく必要はない。自分の直感を信じて、心ときめく幸福感が得られそうな方角に舵を切り、行動を起こせ。

まとめ

  • 実生活を見回せ。価値ばかりを消費しているはずだ。それに気付け。
  • 価値を消費することだけに完結せず、価値を提供することを実践せよ。
  • 感動、喜び、学び、興奮、悲しみ、それらのすべてを自分の中だけに留めるな。
  • 人生は短い。日々の体験をアウトプットして知らない誰かと共鳴せよ。
  • それが習慣化すれば、貢献感を得られるはずだ。

ABOUT ME
GREEN TEA
グリーンティー→ソーシャルワーカー。新しいテクノロジー好き。時々スピリチュアル。ハーブティー→看護師。トレンドに敏感だけど実はそんなに興味なし。仲良し夫婦のお気楽ブログ。