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【2021年】山口百恵のラストコンサートがバズったわけ

山口百恵引退コンサートがバズったわけ

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伝説のコンサート”山口百恵1980.10.5日本武道館”が1月30(土)NHK総合テレビで再放送されました。昨年10月にNHK BSプレミアムで1980年10月に行われたラストコンサートを放送したところ、大きな反響が寄せられたため、この度一回限りのアンコール放送が実現しました。

定額制音楽配信サービスを展開するLINE MUSICの最新TOP100(歌謡曲・演歌部門)では、『プレイバックPart2』(78年)を筆頭に6曲がランクイン(7月20日調べ)。
これは松田聖子の5曲を凌ぐ、第1位の曲数です。当時を知る中高年だけでなく令和世代を魅了する山口百恵さん。
引退して40年も経過する歌手にどうして人気が出たのか、気になったので調べてみました。

ラストコンサートを10倍楽しむために知っておきたい山口百恵のこと

山口百恵の誕生秘話

1959年生まれの山口百恵さんは、当時14歳の若さでスカウトされ、73年5月に『としごろ』でデビューしました。
2ndシングル『青い果実』(73年)でブレイクしてからは“性典路線”でヒットを連発。

74年には『ひと夏の経験』で『NHK紅白歌合戦』に初出場を果たします。
初期は「作詞:千家和也、作曲:都倉俊一」のコンビによる、いたいけな少女を主人公にした作品が多かったのです。

しかし、「作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童」夫妻がメインライターとなった『横須賀ストーリー』(76年)以降は、自立した女性のイメージを確立しました。
ここから同性のファンも多数獲得していきます。

78年の紅白では『プレイバックPart2』で史上最年少の紅組トリを務めるなど、名実ともにトップアイドルとして君臨します。

でも、彼女のキャリアはそれだけに留まりませんでした。
篠山紀信に「時代と寝た女」とまで言わしめた存在感は女優としても抜群で、『伊豆の踊子』(74年)から『古都』(80年)まで13作を数える主演映画はいずれもヒット

テレビドラマでも視聴率30%超えを連発した“赤いシリーズ”。

芸能界の頂点に登りつめ、80年秋の引退・結婚が一大セレモニーとなったのは至極当然だったのです。

山口百恵さんの出発点を語るには、「スター誕生」という番組を外すわけにはいきません。
今ではワン・ダイレクションやスーザンボイルなどのスターを発掘した、海外のリアリティ音楽オーディション番組が有名ですが、それよりも半世紀近く前に、日本にオーディション番組があったのです。

それが1971年に始まった日本テレビ「スター誕生」でした。
スター誕生の審査員であり、ヒットを連発していた作詞家の阿久悠さんは、番組審査の中で、「山口百恵は、映画の主人公の妹役ぐらいならできるだろうが、歌手としてはきつい」と評価していました。
歌がつらいとみたホリプロは、デビューしばらく、性を感じさせる危うい歌詞の歌で彼女を売ろうとします。
山口百恵さんは、愛人の子として育ち故郷・横須賀を出て、なんとしても母や妹と幸せになるんだという覚悟を持って、耐え忍ぶように、またどこか冷めた心で、これらの歌を歌い続けます。

その姿勢が、どこはかとなく寂しげで憂いおび、凄みをまして、若者だけでなく、多くの大衆の共感を得ていきます。

山口百恵の「覚悟」が現在も支持される

伝説のアイドル、山口百恵さん。
その栄光の影に、スティグマ・聖痕を持っていました。
それは、生い立ち。
出生の秘密であり、複雑な家庭環境、非行や貧困といった負の事情です。

デビュー当時、山口百恵さんの生い立ちは、母子家庭に育ったとされていました。
しかし、実は認知されていたものの、愛人の子であったという真実の生い立ちを、200万部のベストセラーとなった自叙伝「蒼い時」で明かしています。
そして彼女は、結婚して晴れて三浦百恵になるために、自分で稼いだ相当額を手切れ金としてその父に渡し、完全に親子の縁を切ったのです。

14歳から21歳までたった7年間の芸能活動で、時代の社会現象にまで上り詰め、そして人気絶頂中の21歳で芸能界を引退しそれ以降、表舞台からは一線を引いています。
その潔さも唯一無二。その後もアイドルたちは誕生しましたが、結婚して子供を産んでからもママドルなどと呼ばれ活躍しています。
しかし身近になった分、アイドルの神聖感はなくなってしまいました。

彼女は、今普通の家庭を営む主婦として、しっかりと現実を生きています。しかし山口百恵という少女の伝説は、これからも語り継がれていくことでしょう。

山口百恵は当時の常識を覆す

百恵さんを楽曲面でサポートした作詞家・阿木燿子さんと作曲家・宇崎竜童さんの存在なくして、山口百恵の全盛期は語れません。

1975年に発売された、宇崎竜童さん率いるダウン・タウン・ブギウギ・バンドの『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』。
この曲で作詞家デビューを飾ったのが、宇崎さんの妻・阿木燿子さんです。
阿木さんは横浜出身。その後、実家が移転したのが横須賀でしたが、自分にゆかりのある二つの街を舞台に、夫のために作詞したこの曲は、いきなり大ヒット。
「アンタ、あの娘(こ)の何なのさ」というフレーズは、当時の流行語にもなりました。

夫婦による作詞・作曲で一躍注目を浴びた阿木・宇崎コンビでしたが、翌76年、二人のもとに突然、こんな依頼が舞い込みました。
「山口百恵に、曲を書いてもらえませんか?」しかも「百恵さん本人の希望らしい」という噂も耳に入ってきました。

阿木さんは「まだ10代のトップアイドルが、私たちのような駆け出しのコンビに、自分で曲を書いてと言ってくるわけがない。そんなことはあり得ないと、まったく信じていませんでした」。
アイドルは、事務所の言いなりになるのが普通の時代。
自己主張するなんてとんでもなかった時代です。

阿木さん・宇崎さんへの最初の発注は「アルバム用に、3曲ほど書いてほしい」という内容でした。
いったい何を書けばいいのか、百恵さんとは年齢も少し離れているので、とても迷ったという阿木さん。
ふと気付いたのが、百恵さんが「横須賀出身」ということです。自分の実家も横須賀。
共通点を見付け、曲の舞台にしようと決めました。横須賀は、横浜と同じ港町ですが、両方の街を知る阿木さんは、大きな違いがあると言います。それは…「陰(かげ)」。

「横浜は明るい港町ですけど、横須賀は軍港でもあり、軍艦も停泊していて、同じ港町なのに、どこか陰があるんです」
そんな横須賀のイメージが、同じく「陰がある」と言われた百恵さんと、ぴったり重なりました。

さっそく横須賀を舞台に、ある男女のストーリーを描いていった阿木さん。
逢うたびに、いつも煮え切らない態度を取る男性。
「私って、都合のいい女なのかな…」だけど、面と向かっては聞けない。
そんな辛い恋をしている女性の心のつぶやきが、サビのこの歌詞になりました。

「これっきり これっきり もう これっきりですか」

百恵さんの歌う『横須賀ストーリー』は、阿木さんの想像以上に大人っぽい仕上がりになり、チャート1位に輝いただけでなく、百恵さんをアイドルから大人の歌手へと導く一曲になりました。
「百恵さんは、こちらが1書いたことを、10にも100にも拡げてくれる。歌のうまい歌手はたくさんいますが、こんなに表現力のある歌手にはめったにお目に掛からないです。百恵さんと出逢えたのは、作詞家冥利に尽きますね」と阿木さんは話します。

数年前、阿木さんと宇崎さんは、百恵さんと久しぶりに再会し、一緒に食事をしました。
そこで、ずっと聞けなかったことを聞いてみたそうです。「私たちに曲を依頼したのは、百恵さん自身だ、っていう噂がありますけど、本当なんですか?」
…百恵さんの答えは「はい、そうです」。

改めて、それが事実だったことに驚いたという阿木さん。
あの時代に、アイドルでありながら、事務所に自分の意見を言えたというのがすごい。結婚・引退もそうですけど、百恵さんは自分の運命を、自分で切り拓いていったんですね」

山口百恵の引退秘話

1980年10月5日、武道館は異様な熱気に包まれていました。
それは、山口百恵ファイナルコンサート。純白のウエディングドレスのような衣裳に身を包んだ山口百恵は、とても21歳とは思えない神々しいオーラを放ちながら、コンサートのラスト、ステージの上に白いマイクを静かに置いて、ファンと芸能界の前から旅立ち、俳優三浦友和さんと結婚しました。
その後、二度とマスコミに姿を現すことはありませんでした。

多くの楽曲がある中で、作曲した宇崎竜童さんや数々の著名アーティストもカバーしているのが、百恵さん引退前最後のシングル『さよならの向う側』です。

『さよならの向う側』は1980年8月21日にリリースされた百恵さん31枚目のシングルで、同年10月5日に日本武道館で行われたファイナル・コンサートのラストを飾った楽曲でもあります。
純白ドレス姿で涙ながらに歌い、最後にマイクを置いてステージを後にするという伝説的演出も語り草です。
宇崎&阿木夫婦のもとに楽曲依頼があったのは、百恵さんの引退発表直後。
「百恵さん最後の曲として、そしてファイナル・コンサートでラストに歌う曲として書いてほしいというオーダーでした」と宇崎さんはコメントしています。

宇崎&阿木コンビとしての最後の百恵さんの曲は、アイドル歌謡曲としては珍しい6分を超える入魂の大作。
ファンに対する百恵さんの思いを代弁すると同時に、宇崎&阿木コンビからの百恵さんへの別れの言葉のようにも読み取れます。
締めくくりという大役ゆえに、生みの苦しみもあったのかと思いきや「それはまったくありませんでした。阿木からもらった歌詞を目で追うと同時に文字の裏側から音符が飛び出してきたような感覚で、歌詞を読みながら自然とメロディが口をついて出てきた。あまりにもスッと簡単に作曲できてしまいました」と意外過ぎる創作の舞台裏を明かしています。

結婚を決意し引退

山口百恵 三浦友和との運命的出会いと電撃結婚、そして引退

その記念碑的映画「伊豆の踊子」から続く13作に及ぶ主演映画で、12作も共演を果たした三浦友和さんに運命的出会いを感じた百恵さん。
苦労を共にした母と妹とともに過ごす、穏やかな結婚生活を選び、まだ21歳の若さで芸能界をきっぱりと引退しました。
人気の絶頂の中、結婚という、いたってシンプルな引退理由でした。

しかし、いやだからこそ、その伝説的人気は今もなお衰えず、最近もメモリアルCDやDVDが大ヒットしています。
また、夫である三浦友和さんはベテラン俳優として順調に活躍。
自伝的著書「相性」では、妻百恵さんとの関係についても語っています。
息子2人は、ミュージシャンの三浦祐太朗さん、もう一人は俳優の三浦貴大さんとなって、母が去った芸能界に入り、2020年6月長男裕太朗さんは、声優牧野由依さんと結婚しました。

引退40年経過後も山口百恵が支持される3つの理由

2020年5月、山口百恵の楽曲のストリーミング配信が解禁されました。その数、600曲以上。
これにより、彼女が現役時代(1973~80年)にレコーディングしたシングル32作、オリジナルアルバム22作、ライブアルバム6作、女優として出演した作品のサウンドトラック8作に収録された歌唱曲がすべて「サブスクリプション(定額制)」で楽しめるようになりました。

そのインパクトは大きく、各メディアが「百恵、サブスク解禁!」と報じると、Twitterでは「#山口百恵」がトレンド入り。

当時を知る中高年による歓迎の声だけでなく、若年層の間でも「サブスクで百恵さんの曲を聴いているんだけど、ほんと激アツ!」、「世代ではないけど大好き!名曲ラッシュ」、「百恵さん、歌うますぎ。昭和の歌、すげー!」などのツイートが溢れました。

昭和を代表するスターの引退から40年。時代は昭和から平成、令和へと移り、彼女の活躍をリアルタイムで知る世代は50代以上となりました。
にもかかわらず、現代の若者をからも支持される山口百恵の魅力。

その背景にある3つの要因を紹介します。

①土壌はすでに出来上がっていた

1つ目は今回のサブスク解禁を歓迎する土壌が若年層の間でも出来上がっていたという点です。
というのも、彼女の代表作はいずれも多くのアーティストによってカバーされ続けており、引退後も替え唄やリメイクバージョンがCMで何度となく使用されています。
つまり、本人が歌っている姿は知らずとも、様々なメディアを通して耳馴染みがあったわけです。

例えば『いい日旅立ち』(78年)は、JR西日本が改詞バージョン(歌唱:鬼束ちひろ)をCMに使用(07年)。
作詞・作曲を手がけた谷村新司のほか、彼女の長男・三浦祐太朗や中森明菜など、あまたのアーティストにカバーされているだけでなく、音楽の教科書にも載るほど国民的愛唱歌となっています。

そうした背景が「この機会に本家を聴いてみようか」という動機づけになったことは間違いありません。また、彼らの親が“百恵世代”にあたり、子供の頃から彼女の歌が流れていた家庭もあるでしょう。
それゆえ、引退後も幾度となく復帰待望論があったわけですが、彼女は三浦友和夫人、そして2児の母親としての人生を選択。
表舞台に一切立たないことで神秘性が増幅し、その潔さが伝説化に拍車をかけました。

②現在のアイドルとの根本的な違い

そして2つ目。これが最大のポイントとなるが、やはり楽曲の持つ力と言えるでしょう。

山口百恵の歌は今のJ-POPやアイドルの曲にはない「特徴」をいくつも備えています。

たとえば『プレイバックPart2』に代表される虚構性の強いドラマチックな歌詞。
それは14歳の時に

あなたが望むなら私何をされてもいいわと歌った『青い果実』から、

結婚直前の21歳で「夫はとうに亡くなりました

いい加減にして男はあなた一人じゃないと啖呵を切った『ロックンロール・ウィドウ』(80年)まで貫かれた作風だが、そういう歌詞には最近滅多にお目にかかれません。

現在の音楽シーンはシンガーソングライターが主流で、等身大のラブソングや、リアルな心情を吐露する歌が多数を占めているからでしょう。

しかし山口百恵が活躍した70年代は歌謡曲の黄金時代。
当時はプロデューサーやディレクターが歌手のイメージや作品のコンセプトを決め、その意を受けた作詞家、作曲家、編曲家が楽曲を創り上げる分業制が主流でした。

だからこそ、自分が歌うにはためらわれるような詞世界が成立し、聴き手も歌手が歌わされていることを前提に楽しむことができたのです。
もちろん分業制は今でも存在します。
シンガーソングライターとともにメインストリームを形成するダンス&ボーカルグループ(アイドルを含む)の多くは作家からの提供作品を歌っていますが、その多くはリズムやパフォーマンスを重視したものです。

「TTポーズ」(TWICE)や「いいねダンス」(DA PUMP)など、振付が話題になることは多いものの、山口百恵のバカにしないでよこれっきりですかなど、流行語にまでなるような歌詞はここ数年、皆無といっていいでしょう。

それはソロのアイドルがほぼ絶滅したことに起因するとも言えます。
かつての歌謡曲では、1人の歌手が歌うことを前提に、プロのクリエイターたちが才能をぶつけ合って「当て書き」をしていた時代。

特にアイドルの場合は旬の期間が限られることもあって、スタッフは彼女(彼)が飽きられないように変化をつけつつ、いかに大人の歌い手に成長させていくかに腐心していました。
それが彼女(彼)の口を通して語られる言葉(歌詞)にインパクトを持たせたわけです。

だが時代は変化し、アイドルはグループが主流となります。グループ名を残したままメンバーを入れ替えていくモデルも定着しました。

1人のアイドルを一から育てる手間やリスクよりは、グループのブランド価値と、画一化された世界観で固定ファンを囲い込む戦略が採用されるようになりました。
楽曲のほとんどが男性目線の「僕」で語られるAKBグループや坂道シリーズはその最たる例と言えるでしょう。

情事のあとの男の仕草を冷静に観察しながら「去年の人とまた比べている」と歌う『イミテイション・ゴールド』(77年)の3ヵ月後、嫁ぐ前日に母を気遣う古風な娘の心情を綴った『秋桜』(77年)をリリースした山口百恵のような振れ幅は、今のグループ型アイドルにはありません。

 

③Youtubeを見て、また魅了される

令和の若者に支持される理由、3つ目のポイントは1作ごとに高度化する楽曲の魅力を最大限に引き出した山口百恵本人の類まれなる表現力と言えます。
現役時代を知る世代は、当時の芸能メディアが報じた彼女の生い立ちや、女優として演じた役柄のイメージを歌の世界に重ね合わせて聞きますが、そういう情報がない世代は純粋に楽曲や歌唱力で評価します。
サブスクで聴いて「いいな」と思えば、次はYouTubeで歌う姿を検索するでしょう。

そこで目にするのは、たった1人で画面をもたせる圧倒的な存在感。
激しいダンスも、媚びをふりまく笑顔もない、ちょっとした声色や表情の変化でヒロインの心情を巧みに表現する歌心や、1人で様々なキャラクターを演じ分ける多面性は、美空ひばりやちあきなおみにも通じるソロボーカルの真髄と言っていいでしょう。

入口は代表的なヒット曲だったとしても、ネットでは1曲聴くと、そのアーティストの別の作品がレコメンドされる。
サブスク解禁で誰でも気軽に彼女の歌声を聴けるようになった今、次はアルバム曲、その次はライブバージョン・・・と、百恵ワールドにハマる若者が続出するに違いありません。

 

まとめ

芸能界引退から約40年。山口百恵さんが著書を出版しました。

キルト作品集『時間(とき)の花束 Bouquet du temps[幸せな出逢いに包まれて]』(日本ヴォーグ社)。

百恵さんは、32年前からキルト作りを始めました。自宅近くのキルトの教室を『やってみたい』と訪ねたそうです。

当時は夫・三浦友和さんが東京郊外の閑静な街に家を建てて間もない頃。

長男・祐太朗さん、次男・貴大さんも手のかかる盛りだったはずなのに、家事と子育ての合間を縫ってキルト作りを続けてきました。

その作品はこれまでも「キルトショー」などで展示され、実力が評価されています。

本著の「あとがき」には、次のように綴られています。
今、暮らしの中に手仕事の時間があることをとても幸せに思っています

“いまの山口百恵の姿”もニーズは絶大で、キルト本の域を超えた予約が殺到しているのも納得できます。

山口百恵さんの生き様から伝わる、“幸せは自ら作り出すもの”というメッセージが老若男女に支持される理由なのかもしれません。

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